小野敏郎 サンバをこよなく愛した 日本人の物語

登録日:2013年2月6日

小野リサの父として知られている小野敏郎は、日本で最初にブラジル音楽の歴史を切り開いた人物である。生前は多くのブラジル人アーティストを日本に招き、日本にブラジル文化を紹介したパイオニア的存在であった。今なお、多くのブラジル人アーティストに尊敬されている小野氏の波乱万丈な人生を追ってみよう。

 

小さい頃から音楽が大好きだった敏郎は、ミュージシャンになることが夢であった。戦時中、軍人であった父にピアノを買ってほしいと言って殴られたこともあったもののその夢は覚めず、軍隊に入っていた時期には軍隊ラッパを吹いては音楽を楽しんでいたという。
「父はとにかく変わった人でした。」と三女の里笑は言う。斬新な発想の持ち主で、鋭い直感力には誰も驚かされていた。敏郎は戦後、車がまだ珍しかった時代に、四谷で外車のディーラーを始めた。このビジネスは成功し、予想以上の大儲け。彼は優秀な実業家でもあった。その頃日本に多くのアメリカ兵が駐留していたため、得意の流暢な英語を活かしアメリカ兵の通訳を務めながら、渡米の夢を温めていた。しかし当時アメリカでは、まだ日本人移民を受け入れられる状況ではなかった。そんなある日、知人からブラジルの話でを聞いた彼は、1958年に渡伯を決意する。そのころ巷では『ブラジルには金のなる木、コーヒーがある』と囁かれていたため、多くの日本人がコーヒー園を求めにブラジルへ渡った。しかし敏郎の考えは違っていた。常に先を行く彼は、ブラジルでホテルを経営しようという壮大な計画を立てる。渡伯を決意するや、調理人やホテルのスタッフを集め、すべての準備を整えたうえで、大人数でブラジルへ渡ったのだった。しかし、その大胆な発想が裏目に出て、到着後まもなく屈辱を味わうことになってしまう。なんと購入したはずのホテルは存在していなかったのであった。せっかく旅費を負担して連れて行ったスタッフも、敏郎の元を去ってしまい、彼に残されたのは家族とわずかな資金だけであった。
敏郎はそんなことでくじけはしなかった。すぐに町のはずれで、わずかな資金で店を始めた。時には竹を拾い集めては店の壁のデコレーションをしたこともあった。その後都市部へ移動し、サンパウロでクラブICHIBANをはじめた。クラブICHIBANは瞬く間にブラジル人のみならず、日本人アーティストも集まる有名なクラブとなった。そして忙しい毎日を送っているうちに気がつけばブラジルに滞在して約15年が過ぎていた。ブラジル音楽にも詳しくなっていた敏郎は、ある日突然日本へ帰ると一家に伝えるのであった。
1972年に日本へ戻ると四谷でとあるビル運営会社の支社長として雇われ、敏郎の日本での生活が再び始まった。とはいうものの、店舗経営こそ敏郎の願望であった。やがてビルの地下を借り、ブラジルの料理と音楽が楽しめる店「サッシペレレ」をオープン。ブラジル料理が珍しい時代、フェイジョンやコウヴェ*1も入手できず、様々な食材を代用してブラジル料理を提供した。多くのブラジル人アーティストをブラジルから呼び、演奏会を開いた。当時はブラジル楽器の入手が難しく、手作りで楽器製作まで行うこともあった。そのうちに四谷に変わった店があると評判を呼び、海外赴任経験者や音楽業界関係者が集まるようになった。やがてサンバのリズムはサッシペレレを中心に日本中に浸透していった。サッシペレレは気がつけば連日満員になっていた。誰もやっていないことに挑戦することを信条としていた敏郎の「ブラジルで培ったブラジル音楽のリズムこそサッシペレレを大成功へ導くことができる」という信念は正しかったのである。
その後も彼の挑戦は続いた。華やかさとギャンブルが大好きだった敏郎はホテルでサンバショーとカジノ教室を組み合わせるイベントの開催や、サッカーの王様「ペレ」をブラジルから連れてきたこともあった。また敏郎は作曲でも豊かな発想力を発揮させ、「演歌とサンバ」、または「サンバとお経」のコラボレーションを試み、CD「GYO」を制作した。それはバイアーナ*2の真っ白な格好をさせた人と僧侶を一緒にサンバのリズムで踊らせるという斬新な発想であった。今では日本中に知られている浅草サンバカーニバルの審査員を務めることもあった。敏郎の人生、すなわちサンバのリズムと言っても過言ではない。
「リサがボサノヴァで大ヒットした時、成功を心から喜んでいました。」と里笑は振り返る。「博打が大好きだった父は、ラスベガスでサイコロを振りながらリサの音楽を聴いた時、例えようもなく感動していました。」と言う。
生前敏郎は人生はリズムだとよく言っていた。「リズムが悪い人はだめ。料理もリズム。バランスが大事。歳をとるとバランスが悪くなるので、年寄りこそサンバをやるべき。」と言っていたそうだ。
2012年10月22日、敏郎は88才でこの世を去った。彼が愛したマルシャ*3のリズムで家族とミュージシャン達に見送られて、天国へと旅立った。そして、今日もサンバが日本のどこかで鳴り響く時、敏郎は天国で微笑んでいることだろう。


*1ケール。ブラジルの代表的料理フェイジョアーダの付け合わせによく使われている。
*2バイアーナとは“サンバの母”といわれる存在で、サンバショーにおいて非常に重要なポジションのひとつ。
*3 以前ブラジルのカーニバルで主流だったリズムのひとつ。



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